サリチル酸インドメタシン

常に肩凝っています。

沈黙 本も読んでみました。

 せんだって、「沈黙」の映画を見て、ぜひとも原作を読み返してみたいと思いました。それにしても、昔高校生の時に読んでけっこう感動したと思ってましたけど、二度と読み返すことはありませんでした。

 なので、かれこれ四半世紀前の本を発掘するところからでした。

 

 本は簡単に見つかりました。何度か買った本を大量に処分してましたけど、この本については、けっこう感動ししたという思い出があったので捨てなかったからです。となりに「死海のほとり」っていう同じ遠藤周作の本がさしてあったんですけど、全くストーリーの記憶がないので、おそらく「沈黙」がよかったから、これも読んでみようと思ったけど面白くなかった、ってことだと思います。

 当時は親に本代を出してもらってなかったことを思うと、よくまあこんな真面な純文学の単行本を少ない小遣いを貯めて買ったものだ、と、感心しました。

 

 それにしても、ちょっとびっくりしたのは原作の本の背景描写でした。ほとんど具体的な描写がないので、映画であんなにリアルに表現されてたことに改めて驚きました。映画って、イマジネーションの世界なんだ。って改めて感心してしまいました。

 穴吊りにしたって、あんなふうな感じには想像してなくって、正直、必殺仕事人とかで町娘が地下牢で拷問されるみたいな感じを想像してました。ネットで検索してみると、映画みたいな昔の絵がたくさんでてきたので、納得しましたけど。

 

 なるほど改めて、映画が原作に忠実なのを確認しましたけど、トモギ村のイチゾウたちが海で磔刑にされる場面は、3人でなくて2人でした。キリスト教徒なら絶対に、キリストの磔刑を連想するし、キリストが他の罪人たちと3人で磔刑になったのに倣いたい気持ちを我慢できなかったんだろうなあ。と思います。

 

 あと、原作を読んでいて気がついたんですけども。主人公たちの宣教師たちは、日本に「布教」ともしかしたら「殉教」に来るわけなんですけども、ずっと自分とキリストの殉教とを重ね合わせているんです。もう、最初っからずっと。

 これを見ると、彼らが本当に自己中なのがわかります(笑)自分の行動に酔ってるんです。

 

 最初に、ヨーロッパの宣教師たちが簡単に殉教してしまう場面が出てくるんですけど、実は彼らも同じように「殉教する自分」に酔っています。しかし、奉行の井上さんのやり方は前の奉行のやり方とはちょっと違っていました。

 それは、彼らをキリシタンの村人と交流させることでした。同じように迫害されて、牢に入れられた村人たちと自由に交流し、自由に告解とかもさせました。

 

 村人を単なる無知な東洋の農民と見るのと、一人ひとりと膝を突き合わせて交流した人たちと見るのとでは、全然違います。とすると、何年も農民たちと交流してきたフェレイラ神父も同様で、ここで初めてこの宣教師の人は、村人を見殺しにできなくなってくるんだ、と気づきました。

 

 遠藤周作は、フランスに留学したことがあるそうですけど、当時の西洋人の東洋人を見る目はかなり酷かったんじゃないかと思います。私も以前、ヨーロッパで何ヶ月か過ごしたことがあるんですけど、国にもよりますが酷い差別を受けたことがありました。

 自分の考えこそが正しいと信じて、正しい考えを教えてやるのだという考えで勝手に布教してくる西洋人に本心を突きつけたのかな、と思いました。

 

 それでも、あなたたちの考えは正しいと言えるのか?

 

 と問いかけているんだな、と思いました。